月光の彼(恋愛ss集)

『月光の彼』
 元来、美少女というのは、段々と人を踏みにじるのが上手になって、上へ上へ上がっていき、悪女になり果てるものでございます。反対に、美青年は、数多の女からの寵愛を受け、段々と、堕ちていくのでございます。例に漏れず貴方も、堕落、堕落、堕落。
 異性に対する嫌悪から同性愛者に成り果てた私は、醜い男を見るだけでも、吐気を催すため、街中を歩くときは、いつも俯いておりましたし、誰とも目を合わせることはございませんでした。しかし、貴方ときたら、汚れを知らぬ処女のように、真っ白な笑顔を浮かべるのでございます。その百合の花のような立ち姿。よく晴れた日、浅い眠りのなかにいると、決まって貴方が夢のなかに現れて、私を苦しめるのでございます。
 私と貴方が交わったのは、たった一度だけ。月の光が眩しい夜でありました。貴方は、私の祖父の骨の埋められた墓の前で、私を抱きました。私が男と抱き合ったことは、あとにも先にもなく、あの日のことが今でも幻のように感じられます。
 祖父が私に触れる手に、性的な意味合いが込められていることは、ずっと昔から知っていました。私は、身体が枯れてもなお枯れることのない男の性欲に、果てしない恐ろしさと、悲しみを感じたのでございます。
 復讐。私と貴方の行為は、幼かった頃の私への救いと、今はもう亡き人への復讐でありました。このことは、誰にも話しておりません。文字通り、墓まで持って行こうと思うのです。
 幸福な思い出よりも、焦りや苦しみの感情ばかりが記憶に残るのは、何故なのでしょうか。貴方とはじめて出逢ったときの、若い私の焦りは、今でも昨日のことのように思い出せるのでございます。
 あの頃の私は、文学や音楽、芸術などに耽溺しておりました。しかし、こうしていられるのも、今のうちだということを、他の誰よりも知っていたのでございます。こどもとしての賞味期限が、もうすぐに迫っている。自分はもう、少女ではなくなる。私はそれをなんとか引き延ばそうと、毎日必死になっていたのでございます。
 そんな時期に現れた貴方は、まるで人魚の肉を喰ったかのように、老いることも知らず、我儘に生きて、自分が美しいことを自覚しながらも、それに全く頓着しないのでございます。私は、そんな貴方が、羨ましくて、妬ましくて。貴方に手を取られて過ごした日々は、まるでつくりもののようでした。
女というのは、恐ろしい生き物でございます。老いるのが、圧倒的にはやく、どれだけ努力をしても、誰もそれを止めることはできないのでございます。
 私など、それこそ、女友達には可愛がられ、男達には、やれ綺麗だ、やれ美人だ、ともてはやされましたけれども、それは自分が化けるのが人一倍上手だったからだと思うのです。容姿のことを褒められても、所詮それはつくりもの。女の美しさと男の美しさは全くの別物で、男の美しさのほうが、圧倒的に価値があるのです。
 誰よりも美しかった貴方はもうここにはいません。こうなることは、ずっと前から知っていました。今、貴方のお墓に水をかけたところでございます。あぁ、今日は月の光が眩しい。 
『逃亡』
 店長は滅茶苦茶な個人情報が書かれた私の履歴書をいかにも真剣に覗き込んで、「ほんとに二十三歳?」と聞いてきた。私は「はい」と答えてにこにこと笑った。もちろん、二十三歳ではないんだけれど。
 スタッフルームに大学生っぽい茶髪の男の子がやってきて、私を見たとたんに「うおー」と目を輝かせた。
「新しいバイトの子ってこの子ですか? ちょー美人!」
 私は男の子に「ありがとー」と言って微笑んだ。男の子は少し頬を染めて、照れくさそうな顔を浮かべた。
「まぁ、まだ面接だけどね。でも、できるだけ採用したいけど」
 困り顔で店長が言う。採用してくれるのかな、と思った私は、とても嬉しい気持ちでいっぱいになった。
「でも、どこかで見たことあるんだよなぁ。僕たち、どこかで会ったことありますか? うーん。思い出せそうで思い出せない」
 男の子が必死に思い出そうとしていたので、私は「すみません、トイレ貸してください」と言って、席を立った。そのまま、鞄も肩にかけて、店をあとにした。
 外では、木谷くんが自転車にまたがって、パックの豆乳を飲んでいた。
「もう終わっただ?」
「うーん。あそこにいるとやばくなる気がする。せっかく働けると思ったのになぁ」
「いいよいいよ。他に働く場所なんていくらでもあるんだから」
「うん。ありがと」
「お昼食べ行く?」
「そうだね」
 私は木谷くんの自転車の後ろにまたがる。木谷くんの自転車が動き出す。木谷くんが自転車のカゴのなかに入れたラジオに電源を入れた。ノイズ交じりの愉快な声が、町の喧騒に吸い込まれていく。
「ここは、良い町だね」
 木谷くんの言葉に、私は頷いた。
「そうだね。本屋さんがたくさんあるし、図書館も大きい。星が綺麗だし、水も美味しいし、いい具合に町が汚れてる」
「もう少し、ここにいられたらいいねぇ」
 木谷くんは歌うように言った。私は後ろから木谷くんのことを抱きしめた。木谷くんはなぜか赤ちゃんみたいなあまい匂いがする。私を育てくれているのは木谷くんだし、私のほうが赤ちゃんなのに。
「木谷くんと一緒なら、どこでもいいよ」
 駅前の交番のポスターに、昔の私の写真が貼ってあった。
『小瓶』
 この小瓶のなかには毒薬が入っているんだよ、と茉莉花は言って、僕の手のひらに小瓶を乗せた。透明な液体は、さらさらとしていて、毒なのか水なのか分からなかった。ただ、茉莉花は平気で人を試すようなことをするような人だった。おまけに肝も座っているので、理科室から薬品を盗んできてもおかしくはなかった。
「蓮くんは誰に飲ませたい?」
 茉莉花は微笑んで僕に聞いた。
「いや、取っておくよ。もしものときのために」
 僕の答えに満足したらしく、茉莉花は口元を隠してくすくすと笑っていた。
 付き合っていた、と思う。当たり前のようにいつもそばにいた。キスもしたし、セックスもした。ただ、手をつないだことは一度もなかった。
 とくに名産品も名所もなく、工業と農業で成り立っているような、ただの田舎町だった。茉莉花はそのなかでもとくに大きな工場を持つ社長の娘で、こんな時代にもかかわらず、許婚がいた。だからだと思う。茉莉花の生き方は常に自傷行為的で、僕と身体を重ねるのも、彼女なりの自傷行為の一つだったのだろう。
 同じ高校のクラスメイトだった僕たちは、学校が終わると、毎日僕の家でセックスをした。片親だし、昔から家に帰っても誰もいなかったので、彼女にとっては丁度いい逃げ場だった。
 あれは、ただの精液の排泄のための性行為だったと思う。彼女がそうするように求めた。彼女の肌しか知らない僕からしたらそれは当たり前のことだったのだけれど、どうやら違うらしい。僕たちに普通を求めるなんて、野暮な話だが。
「なかにだしてもいいよ」
 茉莉花は身体を重ねるたびに、いつもそう言う。そのたびに僕は断って、コンドームを装着した。
「蓮くんとの子どもがほしいな。それでさ、アイツと私の子供ってことにして、私はアイツとその子どもを育てるの。ねぇ、それってすごい酔狂じゃない? 蓮くんはかっこいいし、私は美人だから、きっと男の子でも女の子でも綺麗だろうな。男だったら俳優をやらせて、女だったらアイドルをやらせるの。それでね、たくさんの人に消費されて、絶望してほしい」
「そんな怖いこと言わないでよ」
 私は本気だよ、と言って茉莉花は微笑んだ。きっと本気なんだろうなと僕も思った。結局、僕は彼女のなかにだすことはなかった。僕はそのまま進学して、あの田舎町を離れた。卒業式の日、僕は茉莉花に「一緒に連れていってよ」くらいのことを言われるだろうと思っていたし、本当にそんなことを言われたら、連れていこうと思っていた。
 しかし、彼女は何も言わなかった。明日も明後日も学校で会って、そのあと僕の家にくることが決まっているみたいに、「じゃあね」と言って、手を振った。家に帰ると、僕の携帯にメールがきていた。〈私はこの町の亡霊になります〉。僕はすぐに返信した。〈僕はあの毒薬を君に飲ませたい〉。返事はこなかった。こうなることは分かっていた。 
『葵』
 三人で付き合っているというと、大抵の人が、訳が分からないといった顔をする。だが、俺たちはその言葉の通り三人で愛し合っていて、それ以外に言いようがないのだった。一人は男、もう一人は女。過不足なく愛し合っていると思う。どちらのほうがより好きみたいなものもない。相手によって、愛の形が違う。
 元々、葵と杏介が恋人関係にあり、俺はあとから二人と付き合い始めた。二人とも変わり者で、しかし嫌な感じは全くしない。二人は完全に見た目で得をするタイプの人種で、二人が同じ教室にいるだけで空気が変わる。
 杏介は、初めて見たとき、男か女か分からなかった。ふんわりとした茶色の髪が、肩にかかっていた。足は細く、棒みたいな形をしていて、なにか少しでも衝撃を与えたら、折れてしまいそうだった。本人も自分が男か女かわからないらしく、たまたま身体の形が男だったので、男湯に入り、ズボンを履いているが、もしも逆だったとしても構わないと言っていた。 
 杏介は文章を書くことが趣味で、よく小説を書いて、俺に見せてくれた。どれも面白かった。しかし、どれも面白いと言われることを杏介は嫌っていた。杏介には、性欲というものが全くないらしかった。誰かと交わると、自分の性別が浮き彫りになるようで嫌だと言っていた。だから、童貞のまま生きて、処女のまま死ぬのが目標、と言って、笑っていた。
 葵は女子からも男子からも好かれていたし、教師からも人気があった。みんなが葵を善人みたいに扱うが、俺からしたら葵は狂気の人間で、何をしでかすかわからないため、いつもひやひやしていた。
 杏介が嫌がるので、俺たちは三人では交われなかった。そのため行為をするときはいつも葵と二人だった。夏の日の夜だった。その日は、窓を開けると、部屋中に涼しい風がまわった。行為を終えたあと、葵が「ずっと三人でいるにはどうしたらいいかな?」と聞いてきた。
「離れ離れにならなければいい」と俺は言った。葵は「私は逆だと思うな」と言った。
「ねぇ、一緒に心中しよっか。それでさ、杏介に毎年お墓参りに来てもらうの。そしたら私たち、ずっと三人でいられるよ」
 葵は、面白いいたずらを思いついた子どもみたいに言った。けれど、葵の場合本当にやりかねないのが恐ろしかった。三人ですればいいじゃん、と言った俺に、それじゃだめ、と葵は言った。
「杏介はね、真っ当に生きてるからだめなんだよ。ちゃんとバイトしてるし、貯金もあるし、レポートも期限の一週間に全部終わってる。あの人は、堕落できない。逆に私は堕落するためだったらなんでもするよ。夕はどっちにもなれる。だから私と死んでほしいの」
「お断りだ。お前は太宰治と坂口安吾に感化されすぎだよ」
 俺の言葉を聞いた葵は少し寂しそうに笑った。葵の白くてなめらかな腹を月光が照らしていた。葵はそのまま失踪して、俺と杏介は離れることができなくなった。葵が生きているのか死んでいるのかすら分からないのだ。杏介は、俺との日々を綴って、ブログにあげていた。葵がどこかで見ているかもしれないからと言って。葵のもくろみは成功した訳だ。
『幸福な貧困』
 ご飯を食べるために合コンについて行って、ある程度お腹が満たされると、どうでも良くなって一旦店を出た。こういう集まりにくる人って、どうしてみんな馬鹿なんだろう。なかにはいい大学を出ている人もいるのに、お酒を飲んで大きな声を出したり、はしゃいだりしている姿を見ると、なんとなく頭が悪そうに見える。でも、ほんとに一番馬鹿なのは私で、私は高校も出ていないし、かけ算もできない。
 お店のなかは居酒屋特有のむわっとした感じに包まれていたけど、お店の外に出ても都会特有のむわっとした熱気がある。田舎にいたころの私は、たまに東京にきたとき、その空気の汚さに驚いたけれど、ずっと東京で生活している今は、もうこの空気が汚いのかどうかすら分からない。きっと、包丁で私の腹を刺したら、流れてくるのは真っ赤な血じゃなくて、濁った水だと思う。
 鞄から煙草を出して吸っていると、店から人が出てきた。あまり似合っていない茶髪をワックスで固めている。すると、その男の人が私の隣にきて、煙草に火をつけた。
「退屈だった?」
 その言葉で、私は初めて、あの集まりにこの男の人がいたことを思い出す。名前はもう忘れてしまった。これくらいの年齢の人はみんな顔が同じに見える。
「退屈、だったのかな。分からない。お腹が減っていたから」
「ねぇ、さっき自己紹介で言っていたけれど、本当に役者さん目指してるの?」
「そうだよ。自分に役柄を与えてほしいから」
 私の言葉に、男の人はよくわからないといった顔をした。たぶん、私の言っていることを理解できる人なんて、そうそういないと思う。物心ついたころから、私は観客席にいることが恐ろしかった。モブでもなんでもいい。なんでもいいから、自分に役柄を与えて欲しかった。私が唯一無二の存在でないことくらいは、自分が一番知っている。
 その男の人とは、少しだけ話をした。家族の話、学生時代の話、友達の話。煙草の煙は、都会の汚れた空気に溶けて、もっと街を汚した。
「ねぇ、僕のうちこない?」
 男の人が言うと同時に、チャリに乗った高橋が現れた。私は煙草の先を潰した。
「いいや。あと、言い忘れてたけど、私、煙草吸う男の人苦手なんだ。本に匂いがつくから。特にマンガ」
 私は高橋のチャリの後ろにまたがった。
「あの、新人賞の話だけどさ」
 高橋は何か月か前に、長編小説を書いて新人賞に送っていた。
「うん」
「箸にも棒にも掛からんかった」
 私は「ははは」と大きな声で笑った。高橋もおかしそうに笑った。「腹減った」と高橋が言う。「でも金がない」と。私は駅前の電子広告の光を浴びながら、今、幸せだなと思った。
『サイダー』
「先輩、またサイダーですか。毎日飲んでるじゃないですか。いい加減、体壊しますよ」
 東京支部に用事があり、高速バスを降りてから、新宿駅近くのコンビニでサイダーを買う僕に、後輩の伊東が言った。
「煙草やお酒よりかは体に良くない? サイダー、美味しいじゃん」
「毎日飲んでたら、歯が溶けるってかーさんが言ってましたもん」
 伊東は相変わらずマザコンだな、と思いながら、サイダーのキャップを開ける。僕がサイダーに執着するのは、きっと呪いのせいだと思う。僕が僕にかけた呪い。
 いつも一緒にいたのに、付き合えよ言われたり、からかったりされなかったのは、たぶん僕たちがあまりにも親密すぎたからだと思うし、僕が頼りなさすぎたのだと思う。
 冬海は面倒見が良かった。忘れっぽい僕に、課題の期限や、試験の範囲を教えてくれた。冬海は誰とでも仲良くした。冬海は、ピアスを開けている男子や、本当は禁止なのにメイクをしてくる女子とも仲良くした。かと思えば、いわゆる冴えないオタクグループにも違和感なく馴染んで、談笑していた。
 ある日、冬海が空き教室で男子に告白されていた。どうすればいいのか分からなくて、隠れてしまった。冬海は遠回しに告白を断っていたが、男子のほうはそれに気がついていない。十分くらい経って、冬海がやってきた。ごめん、と言うと、冬海はいいよ、と言った。
「冬海はさ、もてるよね。優しいし、可愛いし、面白いから」僕が言うと、冬海は「違う」と言った。
「誰も私のことなんてみてないよ。それに、男に好かれてもなんにもいいことないし。私はさ、人前では絶対に本当のことを言わない。だから、私の言うことは全部嘘だと思って」
 冬海はそう言うと、少し悪戯っぽく笑った。
 冬海がいなくなる前、僕は冬海と夏祭りに行った。冬海は白を基調にした牡丹の浴衣を着ていた。薄っすらと化粧をほどこした冬海は、非の打ち所がないただの美女だった。この子はきっと、いつか僕の手の届かないところにいってしまうだろうな、と僕は思った。冬海は射的も金魚すくいもやりたがらなくて、お腹も空いていないと言ったから、僕たちは一通り屋台を見終えると、飲み物を買って、神社の階段に座りながら飲んだ。 
 しばらく黙ってサイダーを飲んでいた冬海は、「あげる」と言って、僕に飲みかけのサイダーを渡した。だってこれ、間接キスじゃん、と僕が言うと、冬海は「いやなの?」とからかい半分に聞いてきた。僕は少しむきになって、サイダーを飲んだ。ぬるくて、甘かった。
 冬海は夏休みの間に、どこかに引っ越してしまった。僕の家のポストに、冬海からの手紙があった。その手紙には、冬海の過去とか、家族のこととか、本当のことが書いてあった。僕はその手紙を読みながら、ぼろぼろ泣いた。
「あ、あの女優、可愛いですよね。夏海ちゃんだっけ。あのサイダーのCM好きなんですよ」
 伊東は駅前に貼られたポスターを指差して言った。「僕もそれ好きだよ」と言ってから、僕はサイダーを一口飲んだ。冬海は今も、本当みたいな嘘をつき続けているらしい。
『悪夢』
 深夜三時にトランクケースを引きずって僕の家の扉を開けた雫は、「終電逃したから泊めて」と言った。雫は高校を卒業してから新潟の企業に就職したはずで、よく考えたら(よく考えなくとも)この時間にここにいるのはおかしなことだった。
「はー。お腹すいた。八王子くん、この家ラーメンとかないの。できれば袋麵の味噌ラーメン」
 雫は勝手に部屋に上がると、キッチンの戸棚を漁って、お目当ての味噌ラーメンを探し当てた。そのまま、当然かのようにお湯を沸かし始める。
「……もうどっからつっこんでいいのか分からんなぁ」
 僕が呆れて昨日買ってきた週刊少年ジャンプを枕に横たわると、雫が「結婚しようか」と言った。
「は?」
「私たちだったらさ、きっと結婚しても家庭は作れないと思うんだよね。試験管使わないと赤ちゃんもできないと思うし。それって、ちょっと面白くない? そういえば、江國香織の言葉に結婚は愛情の墓場だっていうのがあったっけ。でも、明らかにこの人江國香織知らないでしょって人が全く同じこと言ってたんだよね。元ネタがあるってことかな」
 僕は深いため息をついた。雫はラーメンを作り終えると、一人でずるずると啜っていた。当然、僕のぶんはない。
 なんだか懐かしいな、と思っていると、思い出したくないことを思い出した。あれはいつの日だったか、   
 雫の買い物に付き合ったとき、一緒に食事をした。雫がお腹いっぱいと言ったので、僕は雫の食べ残したパスタを食べた。もったいないと思ったからだ。家に帰ると雫からメールがきていた。「もし仮に恋人だったとしても、普通、相手の食べ残しなんて食べませんから。隣の席のおばさんが驚いていましたよ(笑)」その場で言ってくれればいいのに、わざわざ文章にして送ってくるのが彼女のいやらしいところだった。
 ラーメンを食べ終わると、雫は僕のベッドで眠った。僕は雫に背中を向けて眠った。
 また、いつもと同じ夢を見た。僕のものを咥える雫。そして、後ろから斉藤先生に突かれているときの雫の苦しそうな喘ぎ声。それが終わると、先生は僕たちに一万円札を素っ気なく渡して、僕たちはファミレスで腰が痛いだのなんだの言いながら、食事をするのだった。
 雫は嫌じゃなかったのだろうか。僕は、あんなジジイにもまだ性欲があることが果てしなく恐ろしかった。それから僕は、性的なものを一切遠ざけて生きてきた。女の人を抱けない僕にたいして、昔の彼女が「このED野郎」と吐き捨てていなくなったこともあったっけ。  
 僕が目を覚ますと、雫が「夢見てたの?」と聞いてきた。雫はずっと眠っていなかったみたいだ。僕がなにも答えないでいると、雫が言った。
「斉藤先生は死んだよ。癌だったって」
 雫がやわらかく指を絡ませてきた。僕はまた、意識が遠のき、夢の世界に近づいていった。彼女と再会してしまった今、僕は再び悪夢に引きずり込まれるのだろう。 
『大恋愛』
 先生は僕を人に紹介するとき、まるで図書館が歩いているような人間と表現するらしい。それは褒め言葉ではないのだけれど、それを聞いただけで大抵の人間は感心してしまうらしい。先生のおかげか、国のほうから声がかかって、僕は軍の資料管理係として仕事をすることになった。先輩が僕に仕事を教えてくれるらしく、資料室に向かうと、そこには肩まである艶やかな髪を三つ編みにまとめた痩身の男がいた。
「やぁ。君の話は聞いているよ。先生には僕もお世話になったからね。コネ入社仲間として実力でここにきた奴らからの冷たい視線に頑張って耐えようね」
「……はぁ」
 男があまりにもぺらぺらと話すうえに言葉の一つ一つに卑屈さが滲んでいたので、僕は一瞬でその男のことが嫌いになった。男はそれから大雑把に仕事の説明をして(本当に大雑把すぎて重要な情報が抜けていた)それから僕を敷地内にある小さな塔へ連れて行った。その塔は色とりどりの花に囲まれていたけれど、どこからどう見ても牢屋だった。
「君にはあの人の話をしなければならないからね。この軍では昔、兵士たちをまとめていた、いや、けしかけてたっていうのかな、伝説の女性がいたんだよ。ほら、この国は男尊女卑だろ。だから、女性が男たちのうえに立つなんて、異例中の異例だったんだ。彼女のおかげで、軍は今までにないくらいの業績を叩きだしたんだけどね、兵士たちがみんな壊れちゃったんだよ。でも、彼女は暴力を振るったわけでもなく、暴言を吐いたわけでもなく、軍のために尽くしていたんだよね。でも、彼女の人を統べる能力はあまりにも危険だったから、軍は彼女を幽閉しているんだ。この話のややこしいところは、彼女は悪事を働いていないということなんだよ。だからね、むしろ彼女を幽閉していると知られたら僕たちが罰せられてしまう。それでさ、彼女が大人しく幽閉されるかわりに一つ条件を出されたんだ。それが、彼女の求めるもの、尚且つ僕らが差し出せるものはすべて彼女に渡さなければならないという約束だったんだ。しかしね、彼女は本当に性格が悪い。毎回注文してくる文献があまりにも貴重なものばかりだから、僕はその本を探し求めて色んな国を行ったり来たり……。あ、これは先週行ってきた国で買ってきたクッキーだよ。良かったらおやつにどうぞ」
 僕がクッキーを受け取ってその塔の中に入ると、そこは壁一面が本棚になっていて、本の虫の僕は思わず息をのんだ。たくさんの本に囲まれて、上質そうな腰掛けで本を読んでいるのは、長い銀髪の女性だった。話で聞いていたよりも穏やかそうな人だった。
「ほら、君の注文した本、全部揃えてきたよ」
 そう言って男は肩にかけていた鞄から数冊の本を取り出した。銀髪の女性はそれを受けると、静かに微笑んだ。その日の夜のことだった。その塔からあの銀髪の女性が消えた。そして、僕に仕事を教えてくれた先輩もいなくなっていた。
 職場のみんなが原因究明に追われるなか、僕は塔のなかで一人笑っていた。本を見れば分かる。あの人たちは物語でやり取りしていた。二人だけで脱走の算段を立てていた。
 僕たちはあの人たちの大恋愛に巻き込まれたただの脇役という訳だった。
『さんかく』
 午前中の仕事が終わって昼休みに入ったので、澪に一緒に昼食をとろうと声を掛けた。澪は少し疲れているのか、ぼんやりとしていたが、俺の声で意識が戻ったらしかった。頷いた澪はロッカールームへ弁当を取りに行った。社食は、今日のランチセットが肉じゃがだったのでいつもより混んでいた。
空いているテーブルを見つけて、二人並んで座る。澪は繊細なところがあって、人と向き合って食事ができない。二人で並んで食事をとっていると、職場のお局に小学生のカップルみたいねと笑われた。
「私も一緒に食べていいですか?」
 食堂が賑やかでも、そのよく通る声は聞き取りやすかった。同じ部署にいる三浦だ。丁寧に施されたメイクと、きっちりしているのにバランスが完璧に計算し尽された髪型。フレームの細い眼鏡がよく似合っているし、そのことを自覚している風でもあった。
「どうぞ」
 俺が答えると、三浦は俺の前の席に座った。手作りの弁当は野菜が多めだった。冷凍食品に頼っている感じもしない。対する澪の弁当は、冷凍食品の唐揚げにハンバーグに春巻きといった、ハイカロリーかつバランスなど微塵も取るつもりがなさそうな食材ばかりだった。
「お前も三浦さんを見習えよ。そんなもんばっか食ってたら身体壊すぞ」
「うるさいなぁ。景はいつもめんどくさい」
 澪がうんざりとした顔をする。こいつは小学生の頃から変わっていない。わがままだし、子供っぽい。
「でも、バランスの取れたご飯は大事ですよ。女の子は肌荒れしちゃうし」
 三浦が澪に優しく言うと、澪は顔を真っ赤にしてうつむいた。分かりやすいな、と思って、俺は内心ため息をついた。
 食事を終えて男用のロッカールームに向かう途中、三浦に声をかけられた。
「あの、昨日のメールの返事が聞きたくて」
 見た目通り、恋愛においてもはっきりしているんだな、と思いながら答えた。
「俺はあなたとお付き合いできません」
 三浦は悲しそうに笑っていたが、その表情はどこか納得している感じでもあった。
「やっぱり、川中さんが好きなんですね」
「でも、澪は俺のことを愛していませんよ」
 三浦が目を瞬いている。俺は会話を断ち切るため、そのままロッカールームへ向かった。
 その日、仕事が終わってから、澪の家に言った。澪と一緒に鍋を食べてから、シャワーを浴びてセックスをした。俺は、澪が俺としているときに一度も絶頂に達したことがないことを知っている。それでも毎回、惰性で繋がっている。澪は相変わらずぼんやりしている。
「三浦さん、好きな人いるのかな?」
 澪がぽつりと言った。知らない、と言って、俺はコンドームをゴミ箱に捨てた。
『三文小説』
「あなたは病気を患って若くして死ぬわ」
 それは僕と彼女で朝食をとっていたときのことだった。彼女が、明日雨が降るよ、みたいな感じで言ったのだ。僕は、驚きはしたけれど、あぁ、彼女が言うのなら、きっとそうなのだろうなと納得した。
 そして、彼女の予言通り僕は大病を患い、余命も残りわずかになった。自分の身体が自分のものじゃないみたいだった。僕はもう自分の力で食事をとることができないし、トイレに行くこともできない。彼女は毎日病室に来てくれて面会時間が終わるまでそばいてくれた。
「新しいお花を買ってきたの」
 病室に入ってきて彼女はそう言って、僕に小さな花束を見せてくれた、黄色やオレンジ色で統一された、明るい感じの花束で、僕は嬉しかった。
 ありがとう、と言いたいけれど、僕はうまく声を出せなかった。けれど、彼女は満足したように微笑んで、花瓶の花を入れ替えていた。
 彼女はその作業が終わると、折りたたみの椅子を出してきて、本を読んでいた。
 彼女は小説家だった。出会ったときからそうだったと思う。毎日パソコンを開いて、熱心に文章を書いていた。彼女は頑なに僕にその文章を読ませてくれなかった。けれど、きっと彼女のことだから、ひねくれていて純粋な物語を書くのだろうなと思った。
「昔、あなたが病気になるって言ったの、覚えてる?」
 覚えてるよ。だから、僕は残りの人生を大切に生きてきた。君と行きたい場所に行って、食べたいものを食べて、伝えたい言葉は惜しまずに伝えた。
「私は小説に書いたことが本当になるの」
 彼女の言うことは、きっと本当だろうなと思った。学生時代から、彼女は預言者じみていた。今日は雪が降るねと彼女が言ったら、予報は晴れだったのに急に雪が降ったりした。僕は彼女のその超人的な能力を面白がっていて、彼女といて退屈したことがなかった。
「私は恋人が大病を患って若くして死ぬって話を書いたことがあるの。あなたを見たとき、あぁ、この人だって思った。私はこの人の恋人になるって思った」
 恐ろしいというよりも、なんだか嬉しかった。なんの魅力もない僕を、なんで彼女が好きになってくれたのか、よくわかっていなかったからだ。
「あなたはハッピーエンドとバットエンド、どっちが好き? でも、あなたは物語の結末をそうやって振り分けたりしないでしょ。だから私はあなたを信用していたの」
 彼女は静かに微笑みながら言った。
「私のその小説は、バットエンドだって人に批判されたわ。でも、私はそうは思わない。だって、主人公もその恋人も幸せだったんだもの。でも今思えば、しょうもない三文小説だったけれど」
 彼女はそう言って、僕の手を取ってキスをした。温かい光が部屋を照らして、彼女の活けた花が輝いて見えた。僕は誰が僕たちのことを不幸だと言えるのだろうと思った。 
『女神と王子』
 純白のドレスに身を包んだ月海は女神みたいで、思わず父親である自分も見とれてしまうほどだった。
「本当に女神さまみたいだな」
 俺が言うと、俺の隣にいた真帆が「もう」と言って笑った。
「でも、本当に綺麗よ。月海」
 月海は照れくさそうに笑うと、「ありがとう」と言った。俺はその言葉を聞いただけで、少しうるっとしてしまった。
 月海はもともと、自分に自信がない子供だった。自己主張が苦手で、いじめの対象になりやすかった。その綺麗な顔立ちも、自分を苦しめる一つの要因になっているみたいだった。
 そんな月海が、今こうやって幸せそうに笑っているのも、界人くんのおかげだろう。界人くんは、月海の初めての恋人だった。穏やかそうな子だったけれど、その美しい瞳のなかに強い意志を感じさせる子だった。多少マイペースなところがあるが、そのおかげで月海も成長したと思う。
「あ、お義父さん、お義母さん」
 白いタキシードをきた界人くんがやってきた。俺は界人くんの背中を軽く叩いた。
「界人くんも、よく似合ってるよ。王子様みたいだ」
「そんなことないですよ」
 界人くんは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「もう、お父さんたら、恥ずかしいことばっかり言って」
 月海が楽しそうに笑っていた。隣にいる真帆も呆れたように笑っている。
「それじゃあ僕たち、他の人達のところにも挨拶してくるので」
 そう言って、界人くんと月海は友人のところへ顔を出しにいった。
「本当に、夢みたいだな」
 俺の言葉に、真帆が頷いた。
「本当ね。夢だったら覚めないで欲しいわ」
 俺は、ははは、と笑った。
「夢じゃないよ。でも、月海が結婚するとは思わなかった。月海が生まれて、どんどんお前そっくりになっていって、俺は恐ろしかったよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、俺は月海が自殺する未来も考えていた」
「そんなこと言ったら、私だってあなたと結婚するとは思わなかったわよ。私は自殺するつもりだったのに」
「それでも、今、こうやって生きているじゃないか。だから、月海も大丈夫だ。真帆のウエディング姿も本当に綺麗だったよ。女神さまみたいだった」
「あなたも、王子様みたいだったわよ」
 俺たちは顔を見合わせて、呆れたように笑った。

あとがき
これはもう性癖ガン詰めの恋愛ss集です。自分は『エモい』という概念好きです!大好きです!しみったれた感じの男女関係や、理解されがたい関係性。離れ離れというある意味関係性の永遠。やっぱり自分の作品の根本となるテーマは『恋』『愛』なんでしょうね。こういう完全趣味の恋愛小説、また書きたいです。

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やっぱり過去にとらわれてる