6月はプライド月間と呼ばれ、日本やアメリカなど世界各地でLGBTQ+(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなどの性的少数者)の権利を啓発する活動などが実施されるそうです。自分は昔からLGBTQ+についての物語を書いていています。私も、この期間にトランスジェンダーの子を描いた思い出の小説を1本、ネット公表しようかなと思いました。
『さくらもち』
春の夜の風は甘い味がする。私は階段をカンカンと鳴らしながら、一息に駆け上がった。階段を登りきった私は、手首に巻き付けた時計を見る。時刻は午後八時半。私は嬉しくて、手に下げたスーパーのビニール袋をわざと揺らした。くしゃ、とビニールの潰れる音がする。
曇りガラスのむこうに、ぼんやりとした白い光が見えた。私は玄関の扉を力いっぱいに開けて、「ただいま」と叫ぶ。
「おかえりー」
少し無理して出したような、上ずった声が返ってきた。私は手も使わずに靴をぬぐと、部屋に上がった。
部屋では黒くて長い髪を白いシュシュで一つに纏めたキジが、足の爪にコーラルピンクのマニキュアを塗っていた。私はベッドの上に鞄を投げると、キジの隣にしゃがんだ。ティッシュに染み込んだ除光液の匂いと、マニキュアの香りがつんと鼻の奥を突いた。
「桜餅買ってきたよ」
私はキジの鼻先に、桜餅のパックが入ったビニール袋を掲げる。
「昨日も食べたのに」
そう言うキジも、なんだか嬉しそうで、私とキジはお互いを見つめ合うと、ふふふと笑った。私は膝を崩して座ると、パックを開いて、二つ入っているうちの一つをキジに渡した。キジが時計の方をちらりと確認したので、私は大丈夫だよ、と言う。
「大丈夫。まだ九時にはなってないから」
「そっか」
キジは安心したようにふわりと微笑んだ。美意識の高いキジは一年中ダイエットをしていて、夜九時以降は絶対に何も口にしない。だからキジはとても華奢で、私はキジが男の子であることを時々忘れてしまう。
「今日、アイスコーヒーおじさんが来たよ」
私は桜餅の葉っぱをはがす。薄いピンク色のお餅を一口食べると、懐かしい甘さがやってきた。
「ほんとに? 今日も一口も飲まなかったの?」
私の話に興味をそそられたキジが私の方に身体を寄せてきた。私はキジを焦らすようにたっぷりと間をおいてから話し出した。
「今日はね……ミルク混ぜて、半分飲んだんだよ!」
「すごい。飲んだの初めてだよね」
キジが目を丸くして驚いたので、私の気分は最高に良くなった。私はキジにこの話を聞いてもらいたくて、ずっとうずうずしていた。
私は喫茶店で働いていた。雑貨屋さんと一緒になった、小さな喫茶店だ。ケーキも冷凍。パスタも冷凍。カレーはレトルト。店長はもじゃもじゃ頭がトレードマークのおっとりした人で、いつも駄菓子を食べている。お客さんはあまり来なくて、一日の売上より私のお給料の方が高い日がほとんどだ。
アイスコーヒーおじさんは、少し前から喫茶店によくやって来るようになったおじさんだ。おじさんと言っても、年は六十前半くらいで、白髪頭のおじいちゃんだ。アイスコーヒーおじさんは、いつも作業着みたいな灰色のジャンバーを羽織っていて、今にも穴が開きそうなくたびれたズボンを履いている。アイスコーヒーおじさんはペンギンのように、てくてくとお店に入ってくる。アイスコーヒーおじさんのジャンバーには、線香と煙草が混ざったような独特の香りが染みついていて、お店の中はすぐにその匂いでいっぱいになる。私がテーブルにお水の入ったグラスとおしぼりを置きにいくと、アイスコーヒーおじさんは、「アイスコーヒー」ととても早口で言うのだった。
不思議なのは、頼まれたアイスコーヒーを出しても、一口も飲まないことだった。アイスコーヒーおじさんは、コーヒーにミルクを混ぜると、匂いを嗅ぐように鼻を近づけて、そのままじっと動かなくなる。そして、五分もしないうちに、百円玉の硬貨三枚を私の手に置いて、店を出ていく。
今日はそんなアイスコーヒーおじさんが半分もアイスコーヒーを飲んだのだ。私と店長は、アイスコーヒーおじさんの匂いの残る店内で顔を見合わせ、軽くハイタッチした。私は手のひらと手のひらがぶつかる時の子気味のいい音を聞きながら、家に帰ったら真っ先にこの話をキジにしようと思っていた。
「どうして今日は飲んでくれたんだろう?」
「喉が渇いてたんだよ」
キジが小鳥みたいに桜餅をちまちま食べながら言う。
「今日はあったかかったもんね」
桜餅を食べ終わった私が指先を舐めていると、キジがティッシュを一枚だして、渡してくれた。私はべとつく指先をティッシュで拭きながら、テレビの画面に目をやった。クイズ番組をやっていたけど、頭の悪い私には、どの問題の答えも分からない。
「お風呂入ってくる」
私が言うと、キジがはっとした顔になって、「ちょっと待ってて」と言ってそのまま、バタバタと慌ただしくお風呂場へかけていく。すぐに戻ってきたキジは私に背を向けて手に持った物を見えないように隠すと、共用のタンスの上から二段目の段に手を突っ込んだ。私はほっと胸をなでおろすキジを見ないようにして、空になったパックを手にとると、キッチンのゴミ袋に捨てて、そのままお風呂場に向かった。
服を脱いで、浴室に入った私は、自分の顔を見つめた。短い髪に、大きな目。低い鼻に、小さな唇。キジは、私のことを、自分の弟に似ているという。キジの弟は、小さい頃、交通事故で亡くなってしまった。私はキジの弟の写真を見たことがない。だから、自分が本当にキジの弟に似ているのか分からない。確かに、メイクを落した私は男の子みたいだった。昔から男の子に間違われることもあったから、私は自分の顔が嫌いだった。でも、キジが私の短い髪を撫でて、微笑んでくれた時、この顔に生まれて良かったと初めて思えた。
キジと私は親友というには仲が良すぎた。だけどキジは、私に対して家族のようにだらしない部分やカッコ悪い部分をさらけ出したりしなかった。キジの全身にはいつも、目に見えない緊張の糸が張り巡らされている。私はその糸の存在に気が付くたび、悲しくなった。
キジは絶対に、自分の下着を私に見せなかった。肌着や靴下は全部私のものと一緒にベランダに干すのに、下着だけは洗面所の突っ張り棒の端っこに干していた。洗濯はキジの仕事だった。キジは私が洗濯機に洗剤を入れることすら恐れていた。
私達は短大を卒業してすぐ、ショッキングピンクの屋根が眩しいこのワンルームマンションを借りた。私とキジは、短大の絵本のサークルで知り合った。その頃、キジはまだ髪も短くて、メイクもしていなかった。声も今みたいに、無理に高くしていなくて、キジは心地よい低い声で絵本を読んだ。キジの声は部屋の空気を細かく震わせて、聞く人の心を穏やかにしてくれた。
絵本サークルでは、地元の保育園や図書館で子供たちに読み聞かせをする活動をしていたけど、子供たちもキジの声に本能的な安心感を覚えるみたいだった。キジは子供たちから人気者があった。女の子達はキジの細い腕で抱っこしてもらいたいと手を伸ばし、男の子達はキジに遊んでもらいたくてキジのマッチ棒みたいな足に絡みついた。キジは子供たちに囲まれて、幸福そうに笑っていた。キジの将来の夢は保育士だった。キジはきっと、無邪気に駆け回る子供たちの中から、たった一人の弟を見つけようとしているんだと思った。キジはランドセルを背負うことも叶わずに、この世を去っていった弟を、いつまでも探していた。
短大に通う学生は、圧倒的に女子が多かった。ぽつぽつと、間違い探しのように講義室の席に座る男の子は、どんなに地味な子でも目立っていたけど、キジは女の子の一員だった。キジの細かい言動や仕草からは、女の子らしい香りが漂い、キジは男の子特有の、欲望にぎらついた目を一切私達に見せなかった。
私達は同じファッション雑誌を読んで、面白いドラマや、効果のあるダイエット方法があれば、それを共有した。キジは誰と話しても、興味深そうに相槌を打ち、気になった情報があれば、デフォルメされた白雪姫がプリントされた小さなメモ帳にそれを書き留めた。キジに恋愛相談をする子も何人かいたけど、その子たちはみんな、キジの男の子としての意見よりも、キジの乙女的な意見を求めているように思えた。
私とキジは、途中までじっくりと時間をかけて仲良くなって、そのあとは急速に、磁石のようにぴたりとくっついた。私達はお互いの部屋を頻繫に行き来し、レンタルビデオ店で借りたディーブィディーを立て続けに何本も流しながら、夜遅くまでお酒を飲んだ。キジは泣き上戸だった。キジはアルコール三パーセントの甘いお酒で、ぼろぼろと大粒の涙を流した。私はキジの頭を撫でて、肩をさすった。なんで、泣きたくなるのにお酒なんて飲むんだろうと不思議に思ったこともあったけど、キジは多分、誰かの前で泣きたかったのだ。キジの目は海みたいだった。二つの目からとめどなく流れるキジの涙は、しょっぱかった。
キジが「卒業したら一緒に暮らそう」と言った時、私はキジの部屋で履歴書を書いていた。綺麗な文字を書こうと思えば思うほど、線は濃く固くなった。潔癖な白色の履歴書に並ぶ他人が書いたような字を見ながら、私は何者にもなれない気がする、と思った。私は顔を上げてキジを見た。キジは真剣な表情をしていた。瞳には、何かに怯えるような色が浮かんでいた。私達は、きっと、離れていても引かれ合う。だからずっと、離れられない。朝起きて、キジにおはようって言いたい。みんなが寝静まった夜の町を、キジと二人で散歩したい。日曜日の朝に寝坊して、一緒にホットケーキを食べたい。キジとの生活を考えるとわくわくした。
「一緒に暮らそうよ」
明日のことも分からない私は、それでもキジと小指を絡めた。キジの長い指。手入れされた小さな爪。キジは目を細めた。泣きそうになるのを堪えているみたいだった。キジは約束を交わした翌日から、物件を探し始めた。気が早いなぁ、と私は笑った。まだ就職先も見つかっていないし、気にいった物件にいつ人が入るのかも分からないのに。キジは顔を赤くしてはにかむと、そっとパソコンの画面を閉じた。
キジとの暮らしが始まってすぐのことだった。その日、私は仕事が休みだった。部屋の掃除を終わらせた私は、洗濯物を畳んだ。キジに喜んで欲しかった。私は洗面所の突っ張り棒の端っこから、赤いチェック柄のボクサーパンツを取って畳むと、タンスの中にしまった。家に帰ってきたキジは、すぐに私が洗濯物を畳んだことに気が付いた。キジはタンスの中から、パンツを取出すと、一度それをごみ箱に捨てて、もう一度タンスの中に戻した。キジはその日、トイレに籠って出てこなくなった。私はドア越しのキジに向かって何度も謝った。キジの返事は無かった。私はトイレの扉の横に膝を抱えて座り、キジがトイレから出てくるのを待った。お腹がぐぅっと鳴って、お尻が痛くなった。
尿意に耐え切れなくなった私が、コンビニのトイレに向かっている間に、キジはトイレから出てきた。キジは布団を頭まで被って、顔を見せてくれなかった。流しに、飲みかけの麦茶の入ったコップが置かれていた。私はその日から、洗濯を一切手伝わなくなった。
お風呂から上がった私は、バスタオルで短い髪をぐしゃぐしゃと拭いた。そのまま部屋に向かうと、キジがさりげなく目を伏せた。キジは私の裸を見ようとしない。気を遣っているというよりかは、私の裸を恐れているように思えた。タンスを開いて、キジに畳んで貰ったブラジャーとショーツを身につける。テレビから、野太い笑い声が聞こえた。
「お風呂入ってくるね」
キジがゆっくりと立ち上がって、洗面所へ向かった。
キジはいつもお風呂が長い。お風呂なんて、ただ熱いだけなのに、どうしてあんなに長い時間お湯に浸かっていられるんだろう。私はグラスに麦茶を注ぐと、ベッドに背中を預けてテレビを見た。
四十五分くらい経った頃、やっとキジがお風呂から出てきた。
「しずかちゃんみたい」
女の子もののユニクロのパジャマを身に纏ったキジに私が言うと、キジは「ごめんね」と眉を八の字にする。長い間お湯に浸かっていたキジの頬は真っ白だ。私がベットに腰掛けると、キジは手に持っていたドライヤーをコンセントに繋いで、私の足の間にぺたんと座った。首筋から石鹼の匂いがする。
ドライヤーの電源をつけて、ぶわぁっと吹き出した熱い風でキジの髪を乾かす。キジの髪の毛を乾かすのは私の仕事だ。ピンク色のクシで優しく髪を梳かすと、髪の毛がつやつやと光りだしてくる。私の額には、うっすらと汗の粒が浮かぶ。
「できました」
まだ熱を含んだキジの髪を指で梳く。隣の部屋から、どん、どん、と音がする。最近隣に引っ越してきた外国人の男の人は、夜になると急に元気になる。ワールドカップの日に、ロシアの人が点を決めた時、うおーっと雄叫びが聞こえてきたから、多分ロシア人だね、とキジは言っていた。
「もう寝よう」
キジの言葉に、私は頷く。歯を磨いた私たちは、ベットに入った。一人用のベットを二人で使っているから、少し窮屈だけど、私もキジも寝相が良いから、ベットから落っこちることはない。
私はオルゴールの音を聞きながら、天井に映し出された家庭用のプラネタリウムの光を見ていた。オルゴールが止まると、キジがぎちぎちとネジを回す。キジが寝るまで、永遠にその繰り返しだ。
キジはイルカのぬいぐるみを抱きしめて、身体を小さく丸めている。楽しげなメロディーの隙間を縫うように、キジのすすり泣く声が聞こえてきた。私はまあるくぼやける黄色い光りを目でなぞった。キジがもぞもぞと動き出して、私の上に覆いかぶさる。私に指を絡めるキジの手のひらは汗ばんでいた。
「ケン」
キジが弟の名前を呼ぶ。ぽつぽつと小雨のように、キジの涙が私の頬に落ちてくる。ケン、ケン。キジの声はか細く、震えていた。キジは柔らかい唇で、私の頬や、瞼や、鼻の先に触れる。耳たぶにそっと甘嚙みされると、頭の中で熱と熱が衝突して、私はぎゅっと口を閉じた。今の私はケンだ。だから、声は出しちゃいけない。今のキジに、女の子の私の声を聞かせちゃいけない。
キジとこうしている時、私は幸せだった。キジと一緒に涙を流せたら、私も優しい人になれるのかもしれないけど、私は生身の人間の死をいつまでたっても実感できない。大好きなおじいちゃんが死んだときも、泣くことができなかった。
私はキジの頬に浮かぶ涙の線を舌でなぞった。海の味がした。
重なった身体が、ぽかぽかと温かかった。私達は今、世界で一番心地よい体温を生み出している。あったかいね、キジ。私は心の中でキジに話しかける。
キジの涙は止まらなかった。
金曜日の居酒屋は、たくさんのお客さんで賑わっていた。アルコールを飲むと、みんな声が大きくなるから、店内のそこかしこで、声がぶつかりあっている。店内は薄暗く、各テーブルの上に、黄色いライトがぶら下がっていた。
「ほんと、マジで信じらんない!」
安祐美ちゃんが、ビールの入ったジョッキを、どんと机にぶつけた。残り少なくなった黄金色のビールはグラスの中で暴れる波のように揺れて、しゅわしゅわと泡が弾けてた。
「確かに」
私は大きな唐揚げを箸でつまんでかぶりつく。安祐美ちゃんは仕事の上司に対する愚直を喋りだすと、止まらなかった。安祐美ちゃんの上司に、いじわるなおばさんがいるらしい。高校生の頃の安祐美ちゃんは、いつも強気で、思ったことはすぐに口に出来る女の子だった。そんな安祐美ちゃんが、言いたいことを我慢して、こんなにストレスを溜めているなんて、にわかには信じがたい。上司ってものすごく恐ろしい生き物だ。
安祐美ちゃんの携帯の着信音が鳴った。安祐美ちゃんは、携帯の画面を確認すると、うんざりしたように目を細めた。「ちょっと出てくる」と言って、テーブルを離れていったので、私は自分の携帯を開いた。メールフォルダに未開封のメールが溜まっている。タイムセールのお知らせ。いつこんな通販サイトにメールアドレスの登録をしたんだろう。全然覚えていない。
私は携帯を鞄の前ポケットにつっこんで、玉子焼きを食べた。玉子焼きを食べながら、キジのことを考えた。
キジはちゃんと一人でご飯を食べているだろうか。きっとあの量のハンバーグは、キジじゃ食べきれないから、明日のお昼はそれを崩して、パスタにかけて食べよう。
しばらくして、安祐美ちゃんがつかつかと黒く艶めくパンプスを鳴らしながら戻ってきた。安祐美ちゃんは、ジョッキの中身を一気に飲み干して、疲れた顔でため息をついた。
「どうしたの?」
「悠太が明日の朝ごはんの米ぜんぶ床にぶちまけたらしい」
安祐美ちゃんは諦めたようにうなだれた。悠太君は、安祐美ちゃんの彼氏だ。丸い鼈甲眼鏡をかけていて、大きい体を隠すように背中を丸めてのそのそ歩く。その後ろ姿は、やる気のない着ぐるみみたいで面白い。安祐美ちゃんは、高校生の頃から、「完璧なイケメンより、ぶさいくな男を甘やかしたい」と言っていて、そんな安祐美ちゃんにとって、悠太君は理想の男の子だった。
「でも、お米洗おうとしてくれたのはいい事だよね。悠太君優しいね」
「優しいとこだけが取り柄なのよ」
安祐美ちゃんはビールを追加で注文すると、今度は悠太君に対する愚痴を喋りだして止まらなかった。バイトは続かず、ふらふらと安祐美ちゃんの家にやってきて、使った食器は流しに置きっぱなし。それでも、悠太君の話をする安祐美ちゃんは、仕事の上司の話をする時と違って、どこか嬉しそうだった。
安祐美ちゃんが悠太君の困った性癖について喋っていると、私達の隣のテーブルで飲み会をやっているママさんグループの一人が、露骨に眉をひそめた。安祐美ちゃんはそのことにまったく気が付いていないようで、さっきから刺激的な単語を連発している。
私には性交についての知識が全くと言っていいほどなかった。早い人は、中学生くらいに処女や童貞を卒業していると後になって知ったけど、中学生の頃の私は処女の意味さえ知らなかったし、私の中でセックスという行為はどこかファンタジーめいていて、本当にそんなことをする人がいるなんてとても思えなかった。高校生になった時もそうだった。友達が恋人や他校の先輩とのセックスについて話をしていても、私はついていけず、曖昧に相槌を打つしかなった。話の途中に分からない単語が出てくれば家に帰ってネットで検索し、その言葉の意味に恐れおののいた。
「野絵はこういう話、なんかないの? 男と住んでるんだよね?」
「なんにもないよ。だって私誰かとしたことないもん」
安祐美ちゃんは目を見開いたまま固まった。
「野絵、まだ処女なの? っていうか、男の方も本当になにもしてこないの?」
「キジは男の子だけど、男の子じゃないっていうか」
安祐美ちゃんは呆れたようにため息をついた。
「そいつ、おかしいわよ」
「確かにキジは普通じゃないかもしれないけど、私達、恋人じゃないから」
安祐美ちゃんがまたため息をついた。私は薄く笑顔を浮かべて、安祐美ちゃんの瞼の上できらめくブラウンのアイシャドウを見ていた。首筋に流れる汗を制服の袖で拭って、すっぴんで笑い合った高校生時代が懐かしかった。
おかしいのはキジじゃなくて、私の方かもしれなかった。
家に帰ると、キジはもう寝ていた。天井には小さな星の粒が広がっている。私は携帯を開いて、アダルトビデオと検索をかけた。サイトを開いて、一番上にあった動画を開く。女の人の喘ぎ声が大音量で流れたので、私は慌てて安物のイヤホンを耳にはめる。女の人のお尻に男の人が腰を打ち付けると、ぱんぱんと音がなった。気持ちいい、と叫ぶ女の人は、辛そうに見えた。私は怖くなって、すぐにサイトを閉じた。息が苦しい。私はうずくまって、少し泣いてしまった。
次の日、お昼ご飯に昨日のハンバーグの残りを崩して作ったソースをかけたパスタを作った。キジはパスタが好きだった。パスタってソースを変えれば毎日食べても飽きないからすごいよね、とキジは感動したように言うけど、パスタが特別好きでもない私は、二日連続でパスタが出てくると、普通に飽きてしまう。それでも、週に何回かはパスタを作るようにしていた。
「あのさ、キジ」
「どうしたの?」
「私、変なのかもしれない」
キジはフォークにパスタを絡めながら、きょとんとした顔をした。
「どうして?」
「セックスしたいと思えないし、他人のセックスを見てても興奮できない。私、性欲が死んでるのかもしれない」
キジの手からフォークが滑り落ちて、鋭い金属音が響いた。表情を失ったキジは、震えた瞳で私のことを見ていた。驚いた私が短い瞬きを繰り返していると、キジが慌てたようにフォークを掴んだ。
「そういうのは人それぞれだから、心配しなくてもいいよ」
キジは優しくそう言った。キジの声は低かった。キジの本当の声だった。私は「うん」と頷いてから、キジから目を逸らした。必死に笑顔を浮かべようとしているキジを見ていると、申し訳ない気持ちになって、そのあとにとても悲しくなった。
ある秋の日のことだった。キジは仕事に行っていて、家にいるのは私一人だった。玄関のチャイムが鳴って、私がドアを開けると、キジにそっくりな女の人がいた。長い黒髪、細くて鋭い瞳。大きな耳。華奢な身体。身長は高くて、背筋は真っ直ぐ。黒いスリムパンツに、灰色のロングカーディガンを合わせていた。
「雉五郎の母です」
女の人は怒ったような声で言った。女の人が喋ると、目尻に小さなしわが浮かんだ。私は女の人を見つめたまま動けなくなった。
キジはこの人になりたかったんだ、と思った。頑張って黒い髪の毛を伸ばすのも、アイラインをきつく跳ね上げるのも、一年中ダイエットをしているのも、きっと、ぜんぶこの人になるためだったんだ。
お母さんは小さい頃にいなくなったとキジが言っていた。キジはその後、一度も私にお母さんの話をしなかった。キジはお母さんをいなくなったことにしたかったのかもしれなかった。この世界に同じ人間が二人も存在するのはおかしいから、キジはそういう事にして、あの姿で生きていくことにしたんだろう。
「キジは今いないです。あの、どうぞ、上がってください」
私が頼りなく震えた小さな声で言うと、キジのお母さんは躊躇うこともなく、玄関に入ってきた。キジにそっくりな女の人の髪から、知らないメーカーのシャンプーの匂いがする。切なくて、喉の奥がきりきりと痛んだ。
キジのお母さんは読みかけの雑誌や、メイク道具の片付けられていないテーブルについて正座をすると、部屋の中にある家具や、ベットカバーの色を目に焼き付けるように部屋を見回した。
私はキッチンで、紅茶を淹れて、お菓子棚を漁った。ほとんどが、食べかけか、賞味期限が切れているものばかりで、唯一未開封だったきのこの山を見つけた私は、お皿の上に出して、テーブルの真ん中に置いた。
私はキジのお母さんと向かい合うように座った。正座が苦手な私がぎこちなく足を畳んでいるのを、キジのお母さんは鋭い瞳で見ていた。
「雉五郎はちゃんと働いているの?」
「はい。印刷会社の事務員をやっています」
印刷会社の事務、とキジのお母さんは独り言のように繰り返した。
「あなたは雉五郎の恋人なの?」
「恋人じゃないです」
「そう」
キジのお母さんが机の上で指を絡ませていた。その手は思わず見とれるほど綺麗で、私はキジが爪をピカピカに磨く姿や、誰にも見せない足の爪にピンク色のネイルを塗る後ろ姿を思い出してしまった。
「ちゃんと働いているならそれでいいわ。短大もちゃんと卒業したのね?」
「はい。卒業しました」
キジのお母さんは、掛け時計に目をやると、鞄から一枚のメモを取り出した。飾り気のない白いメモには、携帯の電話番号が鉛筆の文字で書かれていて、一番下にどこかの新聞店の名前が印刷されていた。
「私は仕事があるのでこれで帰ります。雉五郎が帰ってきたら、これを渡して。電話の一つくらい寄こしなさいと言っておいて」
キジのお母さんは鞄を肩にかけて立ち上がると、そのまま玄関へ歩いて行くので、私は慌てて立ち上がる。ぺたんこのパンプスを履いたキジのお母さんは「キジをよろしくお願いします」と頭を下げて、部屋を出ていった。
午後七時前に、キジが家に帰ってきた。キジはきのこの山を口にいれて、「誰か来たの?」と聞いた。私はキジのお母さんが一口も飲まなかった紅茶を片付け忘れていた。
「キジのお母さんがきた」
キジが一瞬で表情を無くした。キジはしばらくの間、石になったみたいに固まって、突然堰を切ったように泣き出した。男の子みたいな声で泣くな、と思った私ははっとした、キジは男の子だ。
キジは危うげな足取りでキッチンに向かうと、包丁を取り出して、洗面所に向かった。私は必死になってキジの腕を掴むけど、キジは驚くほどの強さで私を振りほどいた。キジが乱暴に浴室の扉を閉める。バランスを崩した私は、フローリングの床に膝をしたたかに打ち付けて、少しの間呆然としていた。
うわぁぁぁぁ、と、キジが叫んだ。喉を荒く削るような悲痛な声だった。私は洗面所のドアノブを支えに立ち上がり、洗面所の扉を開けた。洗面所にはキジのズボンと、灰色のボクサーパンツが脱ぎ捨ててあった。キジは浴室の床に膝をつき、背中を丸めていた。
「キジ、何してるの、キジ!」
暗闇の中で、キジの白いワイシャツがぼんやりと浮かんでいるように見えた。薄い肩。大きな背中。男の子の背中。キジは小刻みに震えていた。私は浴室に飛び込んだ。キジがペニスの根本に包丁をあてていた。初めて見たペニスの生々しさに、本能的に身が竦んだ。
「こんなものいらないよ……!」
キジの手首に、ぐっと力が込められたのが分かった。
「やだやだ、やめて! ダメだよキジ!」
私はキジから包丁を奪い取って浴槽の中に投げた。ごつん、と重くて鈍い音がした。キジがまた獣のような叫び声を上げた。私は暴れるキジを腕の中に押さえ込む。
苦しい、助けて、羨ましい。私の腕の中で、キジが千切れるような声で言った。私は「ごめんね」とばかみたいに繰り返すしかなかった。キジの身体は燃えるように熱かった。
私達は子供みたい声を上げて泣いた。私はその日、キジのお母さんの連絡先が書かれたメモをバラバラに千切ってごみ箱に捨てた。
十一月の半ば、喫茶店にアイスコーヒーおじさんの息子が現れた。アイスコーヒーおじさんの息子は、アイスコーヒーおじさんに寄り添うように喫茶店に入ってきて、どこか落ち着かない面持ちで椅子に座った。
私がお水とおしぼりを机に置くと、アイスコーヒーおじさんの息子は、「あ、あの」とぼそぼそと小さな声で言って、切れ長の三白眼で私を見た。目が合ったと思うと、アイスコーヒーおじさんの息子はすぐに目を逸らし、困ったように視線を泳がせた。
「どうしましたか?」
私が聞くと、アイスコーヒーおじさんの息子は僅かに口を開き、でも何も言わず、しばらくしてから、やっと話し出した。
「父さんは、ここにはよく来ているのか?」
自分の話題が出たからか、今までぼんやりとどこかを見つめていたアイスコーヒーおじさんがぴくりと動く。おじさんは水を一口飲んだ後、早口で「アイスコーヒー」と言った。
「よく、来てくれますよ。こうやって、いつもアイスコーヒーを頼んでくれるんです」
私が言うと、アイスコーヒーおじさんの息子は、悲しげに目を細め、その後に少しだけ口の端を緩ませた。
「俺も、アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
二杯のアイスコーヒーを用意して、テーブルに持っていくと、アイスコーヒーおじさんは、アイスコーヒーにミルクを混ぜた。その様子を、アイスコーヒーおじさんの息子が、猫のような目でじっと見ていた。
二人は十分程でお店を出ていった。アイスコーヒーおじさんは結局、ストローに口をつけなかった。
次の日、アイスコーヒーおじさんの息子が、一人で喫茶店にきた。アイスコーヒーおじさんの息子は、和田純という名前だった。和田さんは、カウンター席に座ると、ぽつぽつとアイスコーヒーおじさんの話をした。
亡くなったアイスコーヒーおじさんの奥さんが、喫茶店巡りが好きで、奥さんは喫茶店にいくと、いつもアイスコーヒーを注文していたそうだ。アイスコーヒーおじさんは、コーヒーが飲めないらしく、いつも紅茶を頼んでいた。アイスコーヒーおじさんは、奥さんが亡くなってからふらふらと家の外に出ていくようになって、仕事の都合で実家に帰ってきた和田さんが、アイスコーヒーおじさんを追いかけてやってきたのが、この喫茶店だった。
アイスコーヒーおじさんは、今でも奥さんを愛していて、アイスコーヒーの香りを嗅ぎながら、奥さんのことを思い出しているなんて、いい話だなぁと思った。
「和田さんのお父さんは素敵な人ですね」と私が言うと、和田さんは恥ずかしそうな顔で曖昧に頷いた。それから和田さんは、喫茶店に週に一度、やって来るようになった。和田さんはアイスコーヒーを注文して、ブラックのまま、読書をしながら飲んだ。近所の書店のブックカバーのかかった文庫本に目を走らせる和田さんは、いつものおどおどしている和田さんと違って、横顔は凛々しく、真剣な眼差しがかっこよかった。
ある日、和田さんが、雑貨コーナーに並べられた、ボトルシップとハ―バリウムを買った。和田さんは商品のお金を払うと、「貰って欲しい」と言って、ハ―バリウムを私にくれた。お礼を言った私が、赤とピンクを基調にした可愛らしいハ―バリウムを眺めていると、和田さんが携帯を出して、「連絡先を交換してくれないか」と言った。私は笑顔で頷いた。この人は私のことが好きなのかもしれない、と思った。だけど、それは自惚れかもしれない。私がそわそわした気持ちで閉店準備をしていると、店長が「和田くんは絶対野絵ちゃんのことが好きだよ」と言ったから、妄想は確信に変わった。
家に帰った私は、ハ―バリウムを部屋に飾って、キジに和田さんの話をした。キジは「すごいすごい」とはしゃいで、和田さんのことを見てみたいなぁ、とわくわくした笑顔を浮かべた。
その日から、私は和田さんと毎日、メールを送り合うようになった。夜、お風呂から上がって、迷惑メールの間に挟まれた和田さんからのメールを見つけると、私は嬉しくなった。カレーとシチューだったら、どっちが好きか、一万時間の法則についてどう思うか。喋るのが苦手な和田さんは、メールで会話を広げるのも苦手だった。送られてくるメールがぜんぶ疑問形なのは、何とかして私と会話を繋げようと思っているからだろう。そんな不器用で頑張り屋さんのところが、いいなと思った。
喫茶店に和田さんが来ると、私は和田さんの後ろ姿を見ながら考え事をした。
どうして人は、誰かに恋に落ちた時、自分が恋に落ちたと自覚できるんだろう。
私は和田さんのことが好きなのだろうか。私が和田さんと仲良くなれて嬉しいという気持ちは、新しい友人と関係が深まっていく時の喜びに似ていたし、自分が好意を持つ人に好意を持たれる時の喜びだと言ってしまえば、そうなる気もした。
和田さんがお会計をしに、レジへやってきた。私は和田さんに、お釣りを渡しながら、和田さんの瞳をじっと見た。私の視線に気が付いた和田さんは、肩を僅かにびくつかせると、恐る恐る、私の瞳を見つめてきた。
「あの、野絵さん」
「はい」
「クリスマスの日、映画を見に行かないか?」
和田さんはそう言い終えると、怯えた顔をして、足元に視線を落した。
「行きましょう。行きたいです」
和田さんは、驚いたように顔を上げて、ほっとしたように笑みを浮かべた。
クリスマスイブは、キジと家で過ごした。フライドチキンや、ケーキを並べて、二人で乾杯した。
「野絵、明日デートだね」
トナカイのカチューシャをつけたキジが、目を輝かせて言った。
「うん。デートだ」
「楽しみだなぁ。こっそりついてっちゃおうかな」
「えー。恥ずかしいからだめだよ」
キジは夢見がちな少女のような笑みを浮かべると、サイダーの入ったコップに口をつけた。今日のキジは、何故かお酒を飲まなかった。隣の部屋のロシア人が、ジングルベルを歌っていた。真っ白なショートケーキを少しずつ口に運んでいたキジは、男の人の歌声に気がつくと、可笑しそうに笑った。
次の日の朝、私が目を覚ますと、枕元に金色のリボンがかけられた小さな袋が置いてあった。リボンをほどくと、袋の中には紫色の花のネックレスが入っていた。私はパジャマ姿のまま、ネックレスをつけて、洗面所の鏡を見た。花は部屋に舞い散る小さな光りを集めて、きらきらと輝いた。思わず笑みがこぼれて、私は足音を立てずにベットまで向かうと、すやすやと眠るキジの柔らかい髪を撫でた。クローゼットに隠していた紙袋を枕元に置いてから、朝ごはんを作って家を出た。
その日は仕事があり、和田さんとのデートは、私の仕事が終わってからだった。和田さんは、閉店準備が終わる頃、喫茶店にやってきた。私達はそのまま、映画館に向かい、二人で映画を見た。子供向けの映画だった。観客は私達以外いなかった。
和田さんは、アイスコーヒーおじさんがアイスコーヒーにミルクを混ぜていた時のように、じっと画面を見ていた。映画が終わると、和田さんは静かに、つぅっと一筋の涙を流した。頬に伝う涙の温かさに気づいたのか、和田さんは慌てて顔を手の甲で拭った。私は、作られたお話で涙を流せる和田さんのことを、とても優しい人だと思った。
映画館を出ると、和田さんは「俺の家に来ないか」と言った。私が和田さんを見上げると、美味しいワインがあるんだ、と和田さんはしどろもどろになりながら急いで付け足した。
「行きたいです」
私が言うと、和田さんはこくりと頷いた。夜の風は冷たくて、私は和田さんの手を握った。和田さんがびっくりして、肩を跳ね上げた。
「温かい」
和田さんは私の手を握り返すと、混じりけのないまっさらな笑顔を浮かべた。和田さんは、赤い屋根の小さな家に住んでいた。和田さんの部屋は本でいっぱいだった。本棚に並ぶ本はブックカバーがかけられたままで、これじゃあ読みたい本も探せないのにな、と思った。そんなところが、可愛いな、と感じた。
和田さんと二人でワインを飲んだ。和田さんはさっきからずっと黙りっぱなしだ。和田さんは時々ちらりとこっちを見ては、意を決したように口を開くけど、すぐに下を向いた。私は、隣に座る和田さんの耳たぶに、小さな穴が開いているのを見つけた。
「ピアス開いてるんですね」
「高校生の時に開けたんだ」
私は和田さんの耳たぶに触れた。小さな穴を覆うように指先を沈ませると、こりこりした感触がかえってきた。面白いな、と思いながら、和田さんの耳たぶを親指と人差し指の腹で挟んでいると、不意に和田さんが私の手首を掴んだ。和田さんの手首には、力が籠っていなかった。それはいつでも私が逃げられるようにするためだった。
「野絵さん、好きです。あなたと、したい」
和田さんの頬が赤く染まっていく。和田さんの色のない唇が震えていた。なんて、不器用な人なんだろうと思った。不器用で、優しすぎる人。私が頷くと、和田さんは私にキスをした。ゆっくりと床に押し倒された私は、一本の線の上に立っているような気がした。少女と、女の境目。徹底的で、決定的な、一本の真っ直ぐの線。和田さんが私のネックレスの位置を直した時、私はキジの身体の温かさを思い出した。
ごめんなさい、と、唇の端から言葉がこぼれた。私は立ち上がって、和田さんの部屋を飛び出していた。外に出ると、小さな雪がちらちらと空から降ってきて、私の頬で溶けた。私は叫び声を上げながら走った。キジ。キジに会いたい。今すぐ、キジに会いたい。キジの薄い胸に、顔を埋めたい。
曲がり角を曲がった時、キジの後ろ姿が見えた。キジは、私がプレゼントした桜色のコートを着ていた。
「キジ!」
私はキジに抱きついた。キジは、手にコンビニの袋を下げていた。中には、アルコール度数の高いビールが入っていた。きっと、これを飲めばキジの涙は止まらなくなってしまう。
「野絵」
閉店準備をする美容室のガラスが鏡のようになって、私達の姿が映った。桜色のコートを着たキジに抱きつく若葉色のセーターを着た私は、一つの桜餅みたいに見えた。
早く春になればいい、と思った。甘い味のする風の中を、キジと二人で歩きたかった。そうしたら、桜の木の下で、キジとキスをしたい。
「帰ろう」
私の背中に腕を回して、キジが言った。
「うん」
私はキジの胸の中で頷いた。キジの薄い身体をぎゅうっと抱きしめると、口の中に甘い味が広がった。桜餅の味だった。
お月見文庫|月見珈詩
やっぱり過去にとらわれてる
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